投稿者:栗城 長英

本年もよろしくお願いいたします。
リレー投稿ということで、自己紹介方々、奥会津について書かせていただきました。

福島県の会津地方の南西部、奥会津と言われている豪雪地域の金山町(当時は村)の母方の実家で生まれました。
子供の頃は積雪170cmは普通でしたが、今は50cm程度です。
母は心臓弁膜症だったので、私が生まれときには心臓が止まってしまい、赤ん坊どころではないとの騒ぎになったそうです。
まあ、真夏でしたので、誰かがあやしていてくれたようです。
父は地方公務員でしたので、福島県内の病院や保健所を2~3年毎に転勤していました。会津坂下町、会津三島町、会津若松市、川俣町、伊達町(現伊達市)、会津田島町(現南会津町)を経て、二度目の会津若松で終の棲家を得ました。私もそれに伴い転校を繰り返しましたが、おかげで自分がどこの言葉(方言)を話しているのか、混乱して困りました。
結果として、只見川(只見線)、磐梯山と鶴ヶ城が私の心の拠り所になりました。

金山町は90パーセントが森林地帯、現在の人口は約2,200人、約1,100世帯、高齢化率は約58パーセント。
一時期は3,500人といたそうなので、かなり過疎化が進んでおり、空き家が目立ってきています。
尾瀬を源流とする只見川が山々の間に流れており、流域は今でも日本の原風景が見られます。
子供の頃は夏休みに汽車に乗って祖母に会いに行っていましたが、さすがに田舎だなあ、こんな所で暮らしたくはないなあと思ったものです。ただ、岩陰に隠れたイワナを手づかみで取ったり、一本櫓で船を漕ぐなどの自然との経験は新鮮でした。
じつは、ここまで生い立ちを書いてきて筆が止まりました。その理由は、金山町は祖父と父母のふる里ですが、私が生まれた場所ではあっても育ったところではないということに気づいたからです。
付かず離れず的な状態だったので、よくよく考えたら、自分はこの町のほんの一部しか知らないのです。
そういうことで、せっかくの機会ですので、私の思い込みの知識を是正しながら、奥会津の金山町について紹介しようと思います。

こんな山奥に集落ができたのはいつ頃かと思ったら、縄文時代中期の土器がたくさん出土したことから、その頃にはすでに人々が生活していたようです。中世には、この一帯は会津四家の一人といわれた山ノ内一族の支配下にあり、七つの城が現在の集落の基となったそうです。城と聞いて、どこに???と驚きましたが、槍・刀で戦った昔は小高い山や崖の上に築いた砦が城だったことで納得。(ということは、日本全国、ほとんどの町村に城があったということになります。ブラタモリの世界ですね。)
さらに、江戸時代には尾瀬を含む広大な幕府の直轄地である天領「南山御蔵入」の一角を担ったことから、「御蔵入の民」として誇り高い生活文化を受け継いできた地域とか。田舎とばかり思っていた私には眼から鱗でした。(と言っても、武士の家系ではなさそうです。)

幹線道路の国道252号線沿いからは見えませんが、標高600mの太郎布(たらぶ)高原があります。ここはアザキ大根が自生している日本で唯一の場所です。初夏には紫一色の花畑になります。辛味大根ですが、蕎麦とは相性がよいです。花が終わる頃には、花ごと土地と一緒に耕します。花が栄養素になるのです。そして蕎麦の実を撒き、秋には白い花が一面に咲き、蕎麦の収穫時期を迎えます。これが高遠(たかとう)蕎麦です。長野県伊那市高遠町が発祥の地ですが、高遠蕎麦の名称は会津からの逆輸入になりました。
晴天の日はのどかな風景でほっとします。是非、見てくなんしょ。

この高原には、沼沢火山の噴火によってできた二重カルデラ湖である、きわめて透明度の高い湖「沼沢湖」があります。四季折々に神秘的な景観を見せてくれます。夏には大蛇退治を再現した「沼沢湖水まつり」があり、また、ほとりに妖精美術館があり、世界中の妖精の絵画、絵本、文学資料、人形、妖精をとり入れた小道具などが展示されています。
『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを担当した、欧米でも人気の天野喜孝氏のシェークスピアの『夏の夜の夢』を表したステンドグラスもあります。天野氏については知りませんでしたが、作品は素晴らしいです。
さらに、沼沢湖は希少なヒメマスの生息地でもあり、10数年前から昔の若者が中心になってヒメマスの育成とヒメマス鮨の全国展開に力を入れています。このコロナで厳しい状況かもしれませんが。
作家の椎名誠さんが監督をした「あひるのうたがきこえてくるよ」のロケ地にもなりました。ここを気に入った椎名さんは撮影終了後は年に数回は訪れています。
この高原だけではなかなか観光客は集まりませんが、国道252号線沿いに道の駅「奥会津かねやま」ができ、昨年その傍に東北電力奥会津水力館「みお里」が建設されました。東北電力初代会長である白洲次郎が関わった只見川の電源開発が紹介されており、白洲次郎の生涯や人間性について詳しく知ることができます。
これも私の勉強不足で、白洲次郎が電源開発に尽力したと知ったのは50代になってからでした。
白洲次郎だけでなく、多くのアーティストの作品もあり、なぜか片岡鶴太郎の絵画やエッセイもあります。(鶴太郎さんは全国あちこちで作品を展示していますが、これも知りませんでした。)

調べていくと、マニアックなものも含め歴史的なものが結構あることが分かってきましたが、まだ自分の足で歩いて見ていないので、それはまたいずれかの機会にしたいと思います。
ひとつだけ。この辺りは戊辰戦争の影響はさほど受けていませんが、ここから車で30分くらいの南下すると只見町になります。そこは戊辰戦争で会津藩が西軍を破った地であり、幕末最後のサムライと言われた富山藩家老の河井継之助の終焉の地で、記念館もあります。司馬遼太郎の『峠』の主人公です。この道を通って新潟方面に行くと、負傷した河井継之助一行が、富山から険しい山道を通ってよく来たものだと感動します。

高校・大学と一緒で、F電機の半導体事業部長だった遠縁の友人が、役職定年を迎えたのをきっかけに、一人暮らしの母親のために夫婦で一時帰省をして10数年。彼は地元で区長をやりながら地元をなんとかできないかと頑張っています。
また、民間写真家で星賢孝さんという方がいます。ひとりで奥会津と只見線の写真を撮り続け、今では日本より台湾など海外で有名になっている人です。高校卒業後、地元建設会社に勤めながら30歳を過ぎて写真を撮り始めたそうです。社長が役員待遇にして自由にやらせてくれたとか。地元愛がなければ継続はできなかった地域貢献です。こころに響きます。
私もこころのふる里と思えるようになってきたこの奥会津を応援して行きたいと思っています。
いずれSMC関係でも支援できればと思っていますが、今はまずは仙台の地元で活動を模索中です。