明日何が起こるかなど想像して不安になったりするのは人だけで他の動物ではないそうです。そういえば我が家の猫は天敵がいないせいかいつ眺めても穏やかな顔で寝ています。
もしかすれば明日餌にありつけないかもしれないなど想像することもないのでしょう。
人は未来を想像する力をもつために未だこない事柄に不安を感じながら生きなければなりません。
ほぼ当たらない宝くじを買って大当たりしてらどうしようかとか、ゴルフコンペでホールインワンをしたら誰にご馳走をしなければならないかと心配するのも人ならではでしょう。
このような不安ならばまだましです。
先々の不安のなかでもっとも大きな出来事が、人は、いつかは死ぬという不都合な真実を意識しなければならないことではないかと思います。
人は誰でもいつかは必ず死にます。それがいつなのかわからないので厄介です。あ!そんなもんだよねと簡単に割り切れる人はそれほど多くないと思います。
自分の存在が突然この世から消滅するわけですから不安があって当然でしょう。また、臨死体験もないわけですからその瞬間がいかなるものかわからないことも不安にさせる要因だと思います。稀に死んだ後に生き返る人もいるそうですが。
人はこの不安を少しでもやわらげ心穏やかに毎日送れるようにと絶対的存在として神仏を考えることにしたのだと思います。
ふだん神仏を信じないという人でも、お盆には墓参りをし、墓前で家族が元気であることを報告し、これからも家族を見守ってくださいと祈る。大切な家族が生死に関わるような病気にでもなれば神仏に祈るのではないでしょうか。
科学の最前線で研究をし、宗教とは無縁とも思える物理学者でさえ神に祈るというのですから誰にとっても絶対的な存在にすがり安らぎを求める気持ちは共通しているのではないかと思います。
死生観などと言うといささか大袈裟な感じがしますが、誰でも一度は死んだらどうなるか考えたことがあるのではないでしょうか。
キリスト教、イスラム教、仏教の3大宗教のいずれの宗教も姿は違うにせよ、来世があると教えています。現世は大して良いことがなくても神仏を信じることで来世は楽園のような世界が待っているという教えは共通しているようです。
最先端の量子科学の仮説として我々の意識や記憶が死後もホログラフィックな波動情報として量子真空の中に存続している可能性があると田坂氏の著書「死は存在しない」で紹介しています。私には想像することも理解もできませんが。
ただ、生命についてはまだまだ不思議でわかっていないことも多く、何があっても不思議ではないと思っています。
宗教は個人的なものであり神仏を信じるか、信じないか、あるいは来世を信じるかは人それぞれだと思います。自分が一番納得できる考えを選択すれば良いのだと思います。
私の場合、死んでみなければわからないです。
ただ、ふだん意識することはありませんが生まれた家が浄土宗ですので一応仏教徒ということになるのでしょうか。それにしても仏教の場合、自分は仏教徒になりますと宣言する儀式のようなものがないのも不思議です。
浄土宗は他力本願で南無阿弥陀仏と念仏を唱えればどんな人でも極楽浄土で永遠の存在になれるそうです。ゆるゆるで生きてきた私にぴったりのありがたい教えです。
ただ極楽浄土が池に蓮の花といった地味なものではなく、もう少し楽園をイメージさせる場所であればなお良いなと思います。
来世がどのようなものであるにせよ死によって今ある姿かたちとしての存在はこの世から消えることはだけは確かだと思います。現世では人には寿命があり一度限りです。それだけに貴重な時間を使い切る覚悟をもち、最後に、いい人生だったな!と思えるよう、現世を生ききりたいと願っています。
生きているというより、死んでないだけなんて言われないようにしたいとは思いますね。
投稿者:工藤 三四郎